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貞観政要の読み方 その4 虚需を廃す
- 2005/08/05(金) 13:25:25
「貞観政要の読み方」 山本七平 著
(山本七平ライブラリー3「帝王学」収録)
お勧め度・秀 ☆☆☆☆☆
帝王学
今回はその4。『虚需を廃す』です。
以下本文より引用
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人間には、必ず虚栄心がある。そして、虚栄心の充足だけは限度がない。もともと「虚」で実態がないのだから、これは無限に膨張しうる。人間が生きていくために絶対必要なものを「必需」とすれば、それは驚くほど少なく、石田梅岩の言葉を平易になおせば「食は満腹すればよく、衣は寒暖に応ずればよく、家は雨露をしのげれば足りる」はずである。もっとも、職業によっては、現代では電卓・電話・車は「必需」であり、それなしに生活して行けない場合もある。さらに社会には「常識とおうルール」があり、それを無視すれば「失礼な」ということになって社会の信頼を失い、人間関係を阻害する場合もあるから、これらは常識的に必要なもの、いわば「常需」というものかも知れない。だが、この「必需・実需」であって、「虚需」ではないから限度がある。しかし「虚」は、そうはいかない。
(中略)
確かに「必需」は、居る所は「膝をいるるに過ぎず」寝るは「一畳」、食は「胃袋の容量」、衣は「寒暖に対応する」で十分である。だが、社会のルールに基づく「常需」となると、「実需」と「虚需」の区別が相当難しくなる。
そして冨と権力があると、周囲も、「その位置、その富、その権力なら、これぐらいが相応しい。これは常識です」ということになり、いつしか「虚需」を満たそうとして際限がなくなる。帝王ともなれば、はっきりした姿勢で自ら限度を持たないと、「虚需」の充足は無限に膨張する。
もっとも、広大な唐帝国で、帝王一人ぐらいがいかに贅沢をしても大したことはあるまいと思う人があるかも知れない。だが、たちまち部下も地方官もそれを模倣する。これはまるで伝染病のようなものである。
私自身、こういうことを経験する位置にいたことはないが、故大平首相の政策研究会「文化の部」の座長をやったときは、少々驚いた。「文化の時代」と大平首相が言ったとたんに、地方に、ぼかぼか「文化会館」が建ち、それが末端にまで蔓延しそうなのである。「冗談じゃない、福祉のバラマキのあとに文化のバラマキなど起こったら大変だ。これに冷や水をかけて止めることが文化政策だ」と思ったことがあるが、これを思うと、魏徴などが「虚栄」と思われることは、実に細かいことまでも、諫言してやめさせた理由がわかるような気がする。これはおそらく、経営者の場合も同じであろう。
(中略)
太宗は、帝王に相応しい立派な名馬が欲しかったのであろう。それに大して、魏徴は次のように続けた。「昔、漢の文帝に一日千里を走る馬を献上した者がございました。ところが、文帝は次のように言われました。『私が祭祀などで平時に行幸するときは一日三十里、戦時などの行軍は一日五十里、前には天子の旗を持つ者がおり、しかも車輛が後続している。私一人だけが千里の馬にのって一体どこへ行けというのか』と。そして、献上のために連れてきた費用をあたえまして、これを返させました。また後漢の光武帝は、千里の馬と宝剣を献上されますと、馬は太鼓を載せる車をひかせ、剣は騎士に与えられました」と。そして魏徴はここで「陛下は理想的といわれる三王を超える業績を果たされましたのに、どうしてここで文帝や光武帝以下になりたいようなことをなさるのですか・・・」という形で、とどめ制した。太宗は、すぐにこれをやめさせた。
確かに、一日に三十里か五十里の行程ならば、千里の馬はいらない。これが必要なのはむしろ伝令であろう。また、都内や日本のハイウェイでは時速250キロの車はいらない。これが必要なのは、広大なアメリカのハイウェイであろう。そんなことは、言われてみればその通りなのである。では、なぜそれを欲しがるか。「おれは他と違って千里の馬に乗っているぞ」という虚栄心の充足にすぎないであろう。太宗がそれを求めたのは、明らかに「虚需」である。
(中略)
もっとも、千里の馬や鷹は誰が見ても「虚需」であり、「必需」でないことはもちろん、社会的・常識的生活に必要な「常需」でもないであろう。しかし、責任者となると、政策上、どうしてもそれが必要だと思えることだが、よく考えてみると「虚需」に過ぎないといったものもある。
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奢侈を嫌い、質素を心がけるべきであるということは本邦の伝統的価値観にも適います。山本氏の書いているように
必需・・・なければ死んでしまうもの
常需・・・なくても死にはしないが、社会生活上必要なもの
虚需・・・まったく必要ではないもの
と分類して、必需と常需をあわせて実需と定義し、虚需を廃して実需のみ持つようにすれば、奢侈におぼれて身代を潰したり、虚栄にまみれてその精神と能力の低劣化をきたしたりする危険はなくなります。虚需の害はそれに留まらず、虚需を求めて汚職やらなにやらに手を染めて道を違えてしまうこともあります。
賄賂を受け取る人の多くは、赤貧洗うが如しというような立場の人ではなく、何らかの事情で生活に窮しているわけでもない、むしろ社会の平均より上の生活を営んでいる人々です。にも関わらず、受けなくても困らない賄賂を受けてしまって一生を台無しにしてしまう。太宗はこの愚かさをわかりやすく説いています。
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「貞観のはじめ、太宗、侍臣に言いて曰く、人、明珠あれば、貴重せざるなし」確かにその通りで、光り輝く宝珠をもてばそれを貴重なものだと思わないものはいない。「若し以て雀を弾ぜば、あに惜しむべきにあらずや」(中略)小石大のダイヤモンドをパチンコで飛ばして雀を撃つ者がいたら、正気の沙汰とはいえまい。それすら正気の沙汰でないというなら、人の生命や財産はそれよりはるかに貴いものではないのか。
それなのに人は、金銀や絹という財産をみれば、法網を恐れずにすぐ受納してしまうのは、まことに生命を惜しまない行為というべきである。
(中略)
「貞観二年、上、侍臣にいいて曰く、朕、常におもえらく、貪人(たんじん)は財を愛するを解せざるなり、と」貪欲な人間は本当に財産を愛することを理解していない、これは相当に皮肉だが、前記のように、まさに其の通りなのである。「内外の役人五品以上の者にいたっては、豊かな俸禄と特別待遇で、一年に得る所の収入は、非常に多いといわねばならない。たとえ人から賄賂をもらっても、数万に過ぎまい。それが一朝露見すれば、免職となって俸禄も特別待遇も一挙にすべて剥奪されてしまう。これでどうして、財産を愛することを理解しているといえようか。小利を得ようとして大利を失う、何とばかげたことではないか・・・」
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まさに太宗の言う通りですが、しかしその馬鹿げたことをつい誘惑に負けて行ってしまうのが人間というものです。汚職や賄賂そのほかの誘惑にこられると、特に欲深くはないはずの小善人がコロリと転んでしまったりするようです。
賄賂をとったり汚職したりする行為を批判するのは至極まっとうな行為ですが、その際「彼らは悪人だ」という認識とそれに基づいた批判だけは的外れであると私には思えます。我々が、悪人がいるから犯罪が起こるのだと信じうる幸福な人々でない限りは、彼らの大半はむしろ真面目な善人たちであるという現実を受け止め、善人に訪れる「魔」の脅威を恐れねばならないのだと思います。(京極夏彦の「魍魎のはこ」はこの魔の考察が素晴らしかった。あれは殺人というめったに訪れない魔でしたけど。)
人間は弱いもので、環境と場合がそのようであれば誘惑に抗うほど強靭な精神を持った人は少なく、道徳的に強くなるなどほとんどの人にとってはそもそも無理なのだと私は思っています。私自身についても、生来臆病なものですから積極的に悪事を働くような度胸はないでしょうが、性根もないものですからそれが些細なものであったり、露見の恐れが皆無であると思えたりすれば、出来心を起こさずにいられるかどうかは疑問です。
そこで金銭そのほかの魔に対抗するのに、この実需の考え方は有用だと考えます。実需だけで満足する生活に日頃から自分を慣らしているか、そこまでできずとも「虚需を廃そう」という意識を日頃から保っていれば、抗いがたい誘惑にであったときも、それに克つことによってではなく、それが誘惑だと気づかずに済むことによって、強い意志を持たない小人でも悪徳を退けることが容易になるのではないかと思うためです。
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人間はみな似たようなものであり、そんな差があるものではない。これは孔子の「有教無頼」(人は教育によって善にも悪にもなるのであって、人間の種類に善・悪があるわけではない)以来の、中国の伝統的な考え方に一つである。魏徴も「嗜欲喜怒の情は、賢愚皆同じ」、いわば嗜欲とか喜怒の情は、賢者も愚者も基本的には変わりありませんと言っている。違うのは、「賢者は能く之を節して、度に過ぎしめず、愚者はこれを縦(ほしいまま)にして、多く所を失うに至る」という点だけである、と。
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